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この盃を受けてくれ

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どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐の例えもあるぞ
さよならだけが 人生だ











もともと、私は、
「自分の身体」を使用した表現が全般的に苦手なのです。
肉体を使って行われる表現。
何故なのか。
理由は簡単で、身体で何かを表すということは、
結局のところ、身体から抜け出せない範囲でしか動けないということで、
まるで箱の中に押し詰められた状態で心を描けと言われているかのよう、
とてつもなく窮屈な空間が創作のための居場所とさせられることなのです。


あと、持って生まれた肉体を表現の場とする際に、
最も障害となることの一つに、性別上の問題というものもあります。
特に、こと女性に関しては、例えそれが聖女等、
精神的な高みへと到達できた人間であったとしても、
己の生身を超越することは至難の業だと言われ続けています。
私は生まれてからこの方、現実面にて与えられた自分自身の性と、
内面から訪れ続ける創造欲の目指す先との、
相容れない方向性を抱え続け、また、そのことを嘆き続けてもきました。


だけど少なくとも、私の求める描写の伝達方法に、
女性であるところのこの身体をさえ使用しなければ、
目指す地点までの表立った制約やら枷やら重荷やらからは逃れられるのです。
この肌や、この声や、この線で、
私が本当に形作りたい思いは伝えきることができないのです。
感触も、響きも、造形も、影響を与える余地すらない場所、
つまるところ言葉、
言葉という世界の中でのみ、
私が目指す景色は広がっていくことができて、
そんな広がる景色を私は更に目指すことができるわけです。









今までは、自分の表したいこと=自分の心が惹かれること、だったので、
自分が読む本(の中でも小説)の方向性は、大体同じ傾向で統一されてきました。
けれど近頃は、そんな今までに、全く手をつけることもなく、
ジャンルとしては割合未開拓の部類であった要素のあるものを、連続で読んでいる次第です。


どんな要素かというと、
①現代小説で、 ②日本の話で、 ③女性の作家で、 ④女性の一人称。


これは、今までにほぼ着手しなかったし、しようともしなかった分野。
しかも、手にとってみてわかりましたが、この条件を満たす本の内容というのは、
ほぼ例外なく恋愛がらみの恋愛脳が恋愛で一喜一憂する恋愛小説なんですね。
それでも、ものによっては、得るものが大きい作品もあります。
私が、興味もない内容の作品も読むように努力して変わったというよりは、
自分の表したいこと=自分の心が惹かれること、この図式自体に変更はないので、
つまるところ、私の作りたい気持ち自体が、時の流れと共に、
ある意味色合いを変えてきた結果が、この現象に結びついていることと言えるのでしょう。



そういえば、
10代の頃から好んで読み続けていて、
その匂いたつような文体と、流麗な作風に大層憧れを抱いていた作家さんがいたのですが、
久々にその方の本を読んでみたら、途中から読み進めることが困難になってきた自分がいました。
その方は、特殊な嗜好と屈折した表現描写に定評のある、
耽美な幻想作家とでも言えそうな位置づけの作家さんなんですけれど、
内容が内容なだけに、主に感覚の鋭敏な10代後半ぐらいの、繊細な少女達から絶大な支持があります。
それが読めなくなった今の私に、なんとも、現実の摩擦と成長の残酷さを感じ取ってしまいます。
だけど綺麗なものを綺麗と捉える意識が枯れることはないでしょうから、
綺麗な言葉を綺麗に綴るこの作家さんはいつまで経っても私の憧憬の対象から外れることはないのです。











ところで、私が日頃読むのは、ほぼ95%、文庫本。
その時読んでいる本ごとに、
その都度、ブックカバーを作りますが、
雑誌の広告ページなどの紙を切って利用し、
その中でも、より、見た目的にインパクトのあるデザインを選びます。
とても目立ちますし、個性的な存在感が出て愛着が湧きます。
あまりにも気に入った出来の時は、読み終わって、次の本に行くことを寂しく感じるまでになります。

Spreenixe、というのは、
ドイツのベルリンを流れるシュプレー川に住む人魚、という、造語だそうです。
人魚という存在は、ある種、私の今後から抜けだせないテーマとなり得ていきそうです。

人生はいろんなことがあるからね、
だけどどうしようもないことをどうしようもないと諦められるほど、
希薄な関係ばかりが、この世を支配してもいないんですよね。
でも、それでも、どうしようもないものは。




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